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 自分の祖先は【屯田兵】で北海道に来たと聞いているが詳しく知りたい。

 現在、北海道に住んでいる人は

1.明治のはじめに、祖先が屯田兵としてきたか、または開拓者として入植した。
 それらの人を祖先に持つ人々で、代々北海道に住み着いたタイプです。
 根っからの北海道人(道産子)というべきですね。

 一例として、明治4年白石藩士400名が、咸臨丸に乗ってやってきて開拓したのが、今の札幌市白石区などです。新十津川町というのが、滝川市のそばにありますが、奈良県の十津川村で大水害がありました。その時に集団移住してできた町です。
 

2.大正、昭和のはじめに炭鉱などで働くためにやってきた人々の末裔
 私もその一人です。これが一番多いかもしれません。
 
3.自衛官や会社員で北海道に転勤になって住み着き、そのまま居ついたタイプ
 私の周りにも結構多くいます。

 北海道、特に札幌に住んでいると、“どちらのご出身ですか”という会話が自然になされます。もともと札幌出身でないことが前提とした会話ですし、日本全国どこから来ていても“そうですか”で会話は終わります。
 どこかから来ていても、それが当たり前の感覚なので、それから先に話しが弾んで行きません。

 そんな風土の中でも、自分の祖先が、何時、どこから、何の目的で北海道にきたのか、知りたくなるものです。

 さて、ここからは私が調査した事例です。

 その方は高齢者ですが、若いときはお祖父さんから祖先のことを聞いた記憶はあるけれど、ほとんど上の空で聞いていた、今になってしっかり把握しておきたい、と考えるようになったと言います。子供達も、若いうちは無関心でも、そのうち気がついたらもう遅いのではないか、との思いを語ってくれました。

 その方は、お祖父さんから引継いだ古い戸籍謄本をもってきました。はじめて目にする「身分」の書かれている謄本でした。



 その前に、戸籍の簡単な歴史を、、、

 明治4年に戸籍法が制定されました。その翌年、日本で初めての本格的な戸籍制度が開始されたことになります。
 この年の干支が壬申(みずのえさる)であることから、この制度によってできた戸籍を壬申戸籍(じんしんこせき)と呼ぶことになったようです。
 この戸籍は「新平民」や「士族」などの旧身分などの記載があることから、廃棄されたことになっています。

 しかし、各地方法務局の倉庫で一般の目に触れないように厳重に保管されている、という説もありますが本当かどうかは分かりません。

 その謄本を写真に撮らせていただいたので、個人情報を伏せて写真を紹介します。

改正原戸籍全体昔の戸籍

 左が謄本の最初のページの全体で、右が右下をズームアップしたものです。

 族稱と書かれた下に「士族」と書かれています。
 今現在、古い戸籍謄本を取ると簡単にわかることですが、今回紹介したパターンと全く同じものです。ということは、最初に作られた戸籍がそのまま不用な部分を消されて使われている、ということです。






 さて、系譜調査を依頼してきた人は、父や祖父から断片的に祖先のことを聞きかじっていました。
 それは、祖先は新潟の高田藩の藩士で、屯田兵として北海道に渡ってきた、ということだけでした。

 いつ、最初に踏んだ北海道の地はどこか、も知りません。どのような手掛かりでもいいから知りたい、調査してほしい、というものでした。

 早速、手元にある謄本を頼りに、さらに遡って戸籍謄本を丹念に追い続けてもらいました。古い戸籍を見るのは、かなりの困難を伴います。それは、戸籍謄本に記載されている本籍地は、その当時の市町村で表示されています。その地が今のどこに該当するのかを探すのが第一のハードルです。

 例えば、明治時代の古い戸籍では、今の札幌市は、「石狩國札幌区、、、」これは分かりやすいのですが、「後志國高島郡、、、」となると土地勘のない人にとってはお手上げです。どこかお分かりですか、今の小樽です。

 私の指導のもと、追い続けてもらって行き着いたところが、厚岸郡大田村というところでした。すでに大田村というのは存在しませんが、現在の厚岸町になっています。

 さらに詳しく知ろうとして、太田村史を探しましたが、どこにもなく、そこで厚岸町史を見つけ手掛かりを探しました。ようやく見つけることができました。

 明治23年(1890)に北太平洋(厚岸湾)の警備と開拓を行うため、本州から屯田兵440戸が太田村に入植してきた、とありました。



 歴史を見ると、江戸時代からロシアの南下政策があり、アイヌ部落が度々襲われるという事件があり、幕府も南部藩、津軽藩の武士を派遣し警備に当たらせていた。このころゴローニン少佐が捕らえられて松前の牢獄に入れられたり、高田屋嘉兵衛がロシアに捕らえられたりした。

 その昔から、ロシアと日本の接点として、絶えず小競り合いがあった地域でもあるのです。

 江戸幕府末期のロシアとの関係について先に触れましたが、そのときに『ゴローニン少佐』について触れました。彼の書いた『日本幽囚記』は、随分前になりますがとても興味深く読んだ記憶があります。

 つい最近、『宣教師ニコライの全日記』(教文館)が、元北大教授の中村健之介さんより刊行されました。近いうちに、私も是非読んでみたいと思います。

 さてここで、司馬遼太郎さんのニコライを書いたくだりを紹介します。

司馬遼太郎著 「街道を行く15 北海道の諸道」朝日文芸文庫 より引用 

 『ここで、東京駿河台のニコライ堂を建てた(明治二十四年竣工)ギリシャ(ロシア)正教の天主教イオアン・ディミトロヴィチ・カサーツキン(1836〜1912)についてふれたい。
 写真でみると、深い眼窩の奥でやや悲しみを帯びた薄い色の瞳、白いひげにおおわれながら甘さを感じさせるロもと、視線はやや上方の虚空を見て茫々とした表情だが、笑顔になったときの顔を十分想像することができる。この人は、
 「ニコライさん」
 と、まわりの日本人によばれ、かれがたてた聖堂もニコライ堂とよばれたが、本名ではなく修道名らしい。
 「私はスモレンスクの寒村にうまれました」
 とよく人にも語っていたという。スモレンスク州の田舎ということらしい。同じ名称であるその州の主都は、ロシアでも最古の都市で、古い寺院が多かった。かれは主都のほうのスモレンスクの神学校の生徒だったとき、ゴローニンの『日本幽囚記』を読み、生涯、日本に骨をうずめようと思ったという。
 一人の青年をそのように思い立たせたゴローニンの本もすばらしいが、一冊の本で生涯を決めた青年のほうも、十九世紀のロマンティシズムを感じさせておもしろい。軒なみに国家が重くなってしまった十九世紀に、かえって国境を出て、異質な社会の中で生涯を送ろうとする知識青年が多くなっていたが、スモレンスクの神学校の図書室の片隅で本を読んでいた青年の心にも、そういう時代の因子が宿っていたことを思うと、次の世紀の終りのほうにいるわれわれに透明なかなしみに似たものを感じさせる。
 日露戦争がはじまったとき、かれは迫害をうけた,かれをいじめる日本人が多かったというが、しかし帰国せず、踏みとどまって教会をまもった。かれの信仰も、ゴローニンに触発された異国愛も、本物だったのである。
 ニコライが日本にきたのは、明治以前である。
 幕府が各国との通商条約をむすぶのは、高田屋嘉兵衛がカムチャツカヘ連れ去られた文化元年(1812年)から46年ののちで、それによってロシアは安政五年、箱館に領事館を置いた。当時、ロシアの場合、領事館付きの司祭というのがいたが、初代の司祭が本国に帰ったあと、公募があったらしい。それに応じてニコライがやってきたのは、文久元年(1861年)である。
 かれは赴任にあたって高田屋嘉兵衛の写真をもってきた。なまの写真ではなく、カムチャッカ幽囚当時、ロシア人が嘉兵衛を油絵で描いたものがゴローニンの「日本幽囚記」の口絵につかわれていた。ニコライはそれを写真にして持ってきたらしい。それほどにこの若い神父は嘉兵衛というすでに歴史上の存在になった人物が好きてあった。
 かれは箱館につくと1番に、嘉兵衛の遺族をたずねた。ついでながら嘉兵衛の死後、その遺族は松前藩から「密輸をした」というあらぬ疑いをかけられ、家屋、財産ともに没収されてしまい、微禄していた。
 「私は、ニコライといいます」
 といって、嘉兵衛の写真をみせた。
 遺族たちがおどろき、やがて嘉兵衛の話になった。ニコライは嘉兵衛の人柄のりっぱさについて口をきわめてたたえた。
 ついてながら嘉兵衛の人間についての描写と説明は、かれにもっとも濃密に接触した ---つまり嘉兵衛にとって加害者の--- リコールドによってえがかれている。リコールドの『手記』も『日本幽囚記』のなかに収められていたから、ニコライはそれによって嘉兵衛の多くを知っていたのである。』

 『宣教師ニコライの全日記』が出版されましたので、以上を紹介しました。
 


現在の北方領土問題
 樺太、北方領土をめぐる日本とロシアの領土争いは、江戸時代から連綿と切れることなく続いています。

 1811年国後島で捕まえられたゴローニン少佐が、その後函館まで連れてこられ、そこで2年2ヶ月の間幽閉されました。その後、高田屋嘉兵衛らと交換で釈放されるまでを書いた『日本幽囚記』、神学生時代にそれを読んで感銘を受けたニコライが、一生涯を日本で伝道するために函館にきて、さらに御茶ノ水へも足を伸ばしニコライ堂が建っているのです。

 江戸時代が終わり、明治新政府となっても、北海道の開拓と同時に、海岸線の警備は必要でした。

 北海道の各地には、日本全国からいろいろな事情で開拓や商売で人が入り込んでいましたが、士族も屯田兵として入っていました。

 今回、調査した方の祖先は、新潟の高田藩の士族で、明治23年(1890年)6月、山形、新潟など8県の士族442戸が、厚岸湾の警備と開拓を兼ねて入植したうちの1戸でした。

 1戸当りの家族数は不明ですが、当時を偲ばせる貴重な写真を見ると相当の家族数だったのではないかと思われます。
屯田兵屋
明治22年1月から翌年5月にかけて標茶集治監の囚人たちによって建てられました。
 北海道の文化財として指定されていますが、その説明によると、
『屯田兵に支給された兵屋は、17.5坪(約58u)の木造平屋建で、土間及び6畳と4畳半の2部屋、居間、台所、押入、便所からなっています。居間には炉が設けられ、屋根に煙出し(排気口)がついています。この兵屋の特徴は、向かい合う建物の構造が、道路を挟んで対称になる「裏返し型」といわれる建て方で、一方の兵屋の入口が道路から遠くなる不都合を解消することが考えられており、道内でも数ヶ所しか例がありません。』
 
 現在の価値判断からみると、非常に狭い中に、大勢の人が暮らしていたのがわかります。

 新潟も雪深いところですが、北海道に渡ってきて、その厳しい寒さには驚いたことでしょう。近年は、地球温暖化の影響もあり、昔のような寒さは少なくなりましたが、当時の冬は氷点下30度に近い寒波が何度も襲ったに違いありません。

 私も帯広で経験がありますが、そのような冷え込みの激しい時は、しっかりと防寒が施されていない靴では、地面にそのまま立っていることはできません。足を交互に上げ下げしなければなりません。

 日本は高温多湿の気候であり、住宅の造りは寒冷地に向いた造りにはなっていません。北海道という寒冷地でも、住宅の造りは本州からそのままの技術が持ちこまれていますから、冬は隙間風が吹き込み、たまらなく寒かったことでしょう。

 写真は、現在も当時のそのままに再現された住宅です。 
兵屋
 太田村は現在は厚岸町となっていますが、明治23年(1890年)から昭和30年(1955年)まで存続した厚岸郡の村でした。
 明治23年6月に開かれた屯田兵村を中核として、村名は屯田用地の撰定に功績のあったアイヌ太田紋助にちなんで名づけられたものです。
 正式名称は「屯田兵根室第4大隊第三中隊」220戸で、同第四中隊220戸として入植したものです。

 厚岸町史を読み進むうちに、当時の戸割りの図がありました。そこには小さく戸主の名が書かれていましたので、それを丹念に虱潰しに見て行くと、ついに見つけたのです。
 捜し求めていた戸主の名がありました。高田藩藩士の祖先が、最初に北海道に渡って来て住み始めた地が分かったのです。

 今回調査した方の祖先は、北海道へ「屯田兵根室第4大隊第三中隊」の一員として、明治23年6月に、大田村(現在の厚岸町)へ対ロシアの北方警備を兼ねて開拓に入植してきました。



 ここに来る前は、新潟県の高田(現在の上越市)の城下に住んでいたことが資料で分かりました。
 明治41年高田城址地図古い地図で調べると、明治時代は早々に城を国家に譲り渡していたようです。そのため、城内やその近隣には学校などが建ち並んでいます。

 wikipediaで明治維新の頃の高田藩を見てみると、「高田藩は、榊原氏6代の支配を経て明治維新を迎えた。戊辰戦争では当初、態度を曖昧にしていたが官軍が迫ると領内にいた幕府側の歩兵隊を追放し恭順の姿勢を示した。
長岡・会津討伐の先鋒を命じられ、東北各地を転戦した。恭順を拒否した藩士は脱藩後、神木隊を組織し後に彰義隊に合同した。 戊辰戦争終結後、降伏した会津藩士1,742名の御預を命じられる。藩内には旧幕府側に対する同情が強く、御預の会津藩士ついても新政府からの給費はごくわずかであったため藩庫から多くの金穀を補填し手厚く待遇した。御預中に死亡した会津藩士の墓地は現在でも「会津墓地」と呼ばれ有志の手によって護持されている。」

 明治維新とともに、大きな変動があったことが伺えます。
 この方の祖先は、地図の右上の一角に住んでいたものと推定されますが、高田藩の中にあって、どのような立場でいた方なのかは、地元へ行き、詳細に資料を探さなければ分からないことでしょう。

 依頼された方には、以上のご報告をしましたが、祖先が北海道に来た理由がはっきり解明できて、もやもやしていた気持ちがすっきりした様子でした。

 今後は、祖先の故地を訪れたり、今回の資料を元にさらに詳しく調べてみたい、ともおっしゃっていました。


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